わたしは「キリスト教は唯一の宗教である」ことを知る最小限の知性を有したホモ・サピエンスであり無宗教者です。そして、わたしは人種的または文化的な過ちを差別しませんが、嘘や悪意を区別して排除します。
わたしは儒教を信じていません。
わたしは道教を信じていません。
わたしは仏教を信じていません。
「臆病者の損得勘定」
死ぬ気で、必死で、命がけで、を唱える者が原因のない自己死をすることなどイエティの痕跡が確認された事例ほども存在しません。実際は自分の生命が続いている限り、一度殺されても許されないことを他の人に対して行使することを許可されているかのように超越的な倒錯を起こします。その一度が増加するにつれて真実を知らずに死への恐怖が減少するのは、「その卑劣さ」と「その臆病さ」は定量化されておらず、損益計算書に含まれないことはすでに計算されているから。
「志(こころざし)という日本語の正体」
わたしは道教を信じていません。
わたしは仏教を信じていません。
わたしは密教を信じていません。
わたしは神道を信じていません。
わたしは神道を信じていません。
わたしは世界平和統一家族連盟を信じていません。
わたしは世界宗教会議を信じていません。
「偽りの天秤」
言葉がなくなってしまえば今の世界を持続することは不可能ですが、お金がなくなっても今の世界を持続することは可能です。
キリスト教が世界宗教になった後であれば正しいであろうその言葉は、キリスト教が世界宗教になることに近づくのか?遠のくのか?
「不自由と不平等を肯定する意識」
キリスト教が世界宗教になった後であれば正しいであろうその言葉は、キリスト教が世界宗教になることに近づくのか?遠のくのか?
「不自由と不平等を肯定する意識」
精神が未熟な時期の大脳に紐付けされている感覚言語への自信が、無理に標準語を喋らさせられている意識を改善させない一因でしょうか。幼稚園児や小学生の時期に標準語を学ばせて標準語で恋愛できれば後世に続くと考えます。不自由で不平等を肯定する意識による日本語の使い分けが常態化している現状で自由で平等な日本社会の実現を訴える言動は見え透いた嘘です。組織化、集団化された嘘吐き同志が互いに「あなたも嘘吐きではありません」と互いを評価する環境に依存させられると、正直な個人の主張に先んじて他人からの評価が採用される社会構造が出来上がってしまいます。その社会構造の「みんな」の定義から外れてしまうと、個人の善意による弁明からは著しく逸脱した他人による人物評が共有されていることは珍しいことではありません。すべての出来事の根源が言葉にある自覚のない社会はとても危険です。
「臆病者の損得勘定」
死ぬ気で、必死で、命がけで、を唱える者が原因のない自己死をすることなどイエティの痕跡が確認された事例ほども存在しません。実際は自分の生命が続いている限り、一度殺されても許されないことを他の人に対して行使することを許可されているかのように超越的な倒錯を起こします。その一度が増加するにつれて真実を知らずに死への恐怖が減少するのは、「その卑劣さ」と「その臆病さ」は定量化されておらず、損益計算書に含まれないことはすでに計算されているから。
「志(こころざし)という日本語の正体」
日本語の志"Kokorozasi"とは、「お金ではなく」というフレーズに従うように見えることを除けばかなり漠然としている、いそがしい怠け者のせこい目標が志(こころざし)です。
「日本人の宗教観と融和の実態」
大多数の日本人は自治活動にまつわる仏教や神道と学校教育にまつわる儒教や道教を「信じていません」と言えない人々です。
「キリスト教は唯一の宗教であることを知っているわたしは、儒教、道教、仏教、神道を信じていません」と言えない人々です。
「たいへんよくできました」「よくできました」「ふつうです」「がんばりましょう」「もうすこしがんばりましょう」のその下の「おしまいです」の評価を下されたら"人としておしまいです"と言われないための方便で「儒教、道教、仏教、神道を信じていません」と言えない大多数に倣っているのが日本人による融和の実態です。