そして、わたしは人種的または文化的な過ちを差別しませんが、嘘や悪意を区別して排除します。
反キリスト教的であることによってのみ宗教的立場を確保しているに過ぎないものを信じていませんと言えない人々の本質は、決定論を否定する決定が共有されていない事実が「利己的な独占欲求」の影響に先立つ論理的な言葉によるものではなく、「利己的な独占欲求」に従う言葉により正当化される本質です。もし仮にイエス・キリストが唯一の神でないならば、それと同時に共有可能な決定論に先立つ共有可能な言葉を超越しない概念も存在しません。その人々が「利己的な独占欲求」に従うスキームだけに安らぎを覚えるならば、その(その関係が相対的であるものに対する定量化である)経済システムは共有可能な決定論に基づいていないことになります。真実という共有可能な言葉の概念がそれ自体を超越する妄想の支配を受けない限りすべての事象は共有可能な言葉によって明らかされ、仮に誤りがあれば、それは言葉によって正すことが可能であるという理論を理解しています。
紀元前の偉大な哲学者たちは「利己的な独占欲求」に従う共有不可能な概念に支配される(偽りの)宗教を排除し続けた偉人たちであり、それを知らなかった時代からキリスト教を待ち望んでいた賢人であると考えています。もし「利己的な独占欲求」に従う共有不可能な概念に支配される組織集団に(偽りの)宗教を語らせることが許されるのであるなら、人類による共有可能な概念の言葉の創造さえ及ばない「沈黙する無知」にさえ神の資格が無責任に与えられることも許容され、その支配構造のトリクルダウン効果により「無知への沈黙」を強要させられる(偽りの)宗教が節度なく組織集団の最小単位に至るまで蔓延するであろうと考えます。あなたが反キリスト教的であることによってのみ宗教的立場を確保しているに過ぎない(偽りの)宗教の支配者であるなら、たった今あなたが偶然に道端で発見した「ヒポクラテスのうんち」でさえ、その上にオベリスクを建てる尊厳を与えることができるでしょう。
すべてが言葉であるという現実を理解している人を想定せずに言葉を明かす人はいません。わたしは理解しています。あらゆる言葉が公に明らかにされると同時に「わたしは反社会的な人間ではなく、社会的な人間である」という宣言に相当することを。
もし仮に「最小限の知性」が神を想像している自身を盲目的に信じる宗教的な暗示であるならば言葉の概念の個人差に統一性を与える手段として常に差別的な何かを必要とする収拾不可能な愚か者の巣窟と化すかもしれませんが、複雑怪奇なペトログリフ文字というハンディキャップを考慮したとしても「怪力乱神」の事後にキリスト教を借り入れる策略は不合理です。