「利己的な独占欲求」は、キリスト教の普遍性と唯一性が肯定され続けることによる最善を欲求するべきであることを知っています。
宗教という言葉の概念は、利己的な独占欲求は何を欲求するべきか?という言葉を正しく理解するための明示的な命題に等しいと考えます。たとえば「信じている」という言葉の純粋さ。
「利己的な独占欲求」に対する論点の自己提案が「禁欲であるべきか、貪欲であるべきか」であるならば、無神論者を自称する倒錯を起こす以前にまずは知るべきです。
「利己的な独占欲求」が禁欲を求めるならば、それは無制限にアンチノミーを繰り返す偽善者になるか、際限なくアンチノミーを繰り返す精神病者になるであろうことを。
「利己的な独占欲求」が貪欲を求めるならば、自分自身の「信じている」という言葉の純粋さを追及する過程で自分以外の人々の「信じている」という言葉の純粋さが不合理となる脆弱さにより、自らの胸腺の影響に従う独善者になるか薬物中毒者になるであろうこと。
不可知論の『「唯一絶対なる神」をイメージすることは不可能です』という言葉を共有するアイデアは、不合理が正しく理解できない不合理であるというイメージに対してのみの不可知の表明であり、それが二律背反でないのであるならば「マッチョな神話」です。
哲学とは、暗に「信じている、信じていない」である個人的な論拠を可能な限り「知っている、知らない」という明確な論理に置換するのと同時に「信じる」という言葉に対する純粋さの追及を妥協しないジレンマでもあると考えます。
儒教、道教、仏教、神道を信じていませんと言えない日本人は、「信じている、信じていない」という論点が増加する状態を嗜好し、反哲学的である自覚に乏しいホモ・サピエンスです。