キリスト教 |儒教・道教・仏教・密教・神道
「儒教の正体」
儒教とは、宗教施設を持たず宗教対立も無い「沈黙の宗教」などではありません。
無節操に社会全体に蔓延る儒教の性質を考えれば社会で起こるあらゆる不幸に対して責任がある訳で、儒教を宗教と捉えた場合には、それによる膨大な侵害や膨大な蹂躙の計測が不可能な「盲目の宗教」というのが正しい表現です。
儒教を正しく理解したければ儒教とは紀元前の無責任な噂話であったという現実を知ることです。
儒教とは「(偽りの絶対者への)不信を諦めること」を「信」と定義付けることによって疑問や反感を排除する虚言や欺きの発生源です。孔子が大衆を信じていないからこそ儒教が成立している訳で、その根底にあるものは「不信」を持っていないかの如くの虚言や欺きであることは間違いありません。
正しい理解を得る為ではなく、その高慢の本質を見透かされぬ為に言葉を覚え知識を蓄える怪力乱心に人々は懐柔され、「精神が霜降りの病人」に優秀のラベルが張られ、「悪意による不条理」は合理的な振りをする。「不信の共有に依存する村社会」が儒教の限界です。
「道教の正体」
道教とは「仏陀は善かもしれぬが仏教徒は悪であろう、孔子が悪かもしれぬのならば儒教徒は善としておこう、そしてその全てをひとつの世界としたものが太極である」と独断したのは天上界に住まわれている玉皇大帝であるという説と、長蛇の列の最後尾で懺悔待ちをしているのも玉皇大帝ですよという二説があり、Genghis Khan の "Mongolian Sickness" という病名とした方が正しい理解であろうものが道教。
その非論理的な象形を言語化して理解するのであれば『その魂の全部が悪意で満たされていれば、「私の魂の半分はいまだ善意のままです」という嘘を吐くことにさえ微塵の抵抗も覚えない』です。
道教とは「自らの誤りの探求」と「自らの嘘の探求」を同一視する誤解を装った悪意に他なりません。
「仏陀の風景」
釈迦族の王子として生まれ育ち何不自由のない生活を送らされたゴータマ・シッダールタ(仏陀)の宿敵であるアートマンを餓死させるべく苦行の果てに満たされたのはゴータマの「利己的な独占欲求」でした。更に、ゴータマの「利己的な独占欲求」が到達する必要があるのは「利己的な独占欲求による原因のない自己死」であり、この言葉の実践だけが唯一の不可侵の領域です。
そして、他の追随を許さない奇人変人に塗り替えられるギネス記録のラッシュが下火になる頃に"Nagarjuna"という「臆病な偽善者」が世に排出された訳は言うまでもありません。
「大乗仏教の正体」
仏陀に敵意を抱きながらも仏教の依存者でもある大乗仏教の根幹は「依存と支配」による自己矛盾を理解することから逃げ回る見苦しさ。
「仏陀に回帰するなら死んだ方がマシである」という命懸けの空想により、本来「自己死の実践以外にはあり得ない信心」が先延ばしされ続け、ともすれば「死んだ方がマシ」や「命懸け」の矛先の自他を誤るような暴言を死ぬまで繰り返す「虚言の源泉」です。
「主義を知らない日本の党員」
"キリスト教は唯一の宗教である"ことを知る最小限の知性を有することはあらゆる主義の前提条件であることを理解していない怠け者が無宗教を自称することは不合理です。