21世紀における日本人の世界遺産に対する熱心さを覗っていれば、首が飛来した伝承の数を上回る将門の首塚が存在している夢や、そこから更に数百年遡った日本神話の神々が八百万、やおよろず、ヤオヨロズも居る幻を見たとしても不思議でありません。
「神道の正体」
神道とは、「全知全能にはなれない」という言葉を巧みに操る「知らぬが仏」のような「虚構に至上の報復を隠蔽している迷信」の共有者たる日本語至下主義者たちが「消去法により表面的な嘘の事実から排除する」という明らかな嘘であり「深層の欺きに超越を憶えた自惚れの集積場」と化しているのが神道です。
「武士道の正体」
武士道とは、仏陀に忠義も尽くさぬ武士(もののふ)が己の往生際を口実に仏陀の誠(まこと)をくすね盗る、潔さの欠片も無い面妖な盗人。
「武士道の正体」
武士道とは、仏陀に忠義も尽くさぬ武士(もののふ)が己の往生際を口実に仏陀の誠(まこと)をくすね盗る、潔さの欠片も無い面妖な盗人。
「背信の諸原理序説」
キリスト教の普遍性と唯一性が肯定されていることによりその最善は担保され続ける真実に基づいて人々が仏教を「禁欲主義(の悪魔)」と把握することは誤りです。「利己的な独占欲求による原因のない自殺の実践」この言葉を信じる人々が仏教徒である事実を政治や経済の道具として悪用するべきではないと考えます。何故ならば利己的な独占欲求そのものにより禁欲と貪欲を同時に追求することは二重基準もしくは矛盾による不合理であるからです。「禁欲主義(の悪魔)」と条約や契約を結ぶのは、最も完璧なミイラに肖る愚か者です。
「明治維新とは」
問題の原因であった「中華三教」が「幕府」から「政府」に「衣替え」した日本史です。
それは現在の日本という国を俯瞰して眺め、個人に向かってズームインしていくと、人々の慣習から内側に個人という存在は見当たらず、西洋文明の表面的な模倣をしている社会の高次では形骸化する「中華三教」であっても、伝統、文化、慣習の内側では「不干渉の領域」として日本人の自由の精神と民主主義へ不当な圧力を掛けて歪め続けています。「中華三教」が争う動機は常に「最善のためではなく官軍になるため」です。
「さざれ石の実態」
お金を根拠にしている実態を隠しながら「お金よりも大事なことがあるでしょう」という矛盾した言葉を社会に対して嘯き続け、それに対する正当な批判の言葉は宗教的な礎(いわゆる巌)にできることにより、それらを大歓迎して大募集する稚拙な役回りです。
「覚醒する日独の好奇心」
明治時代の日本人が "Erwin Otto Eduard von Bälz" に「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです」と語っていますが、それならば過去の歴史をねつ造したり改ざんしたり隠ぺいするのではなく、己が何者であるのかを思考して明確にした後に、その全体を正しく賛否するべきであろうと考えます。
文化的価値がある建造物を取り壊せとは言いませんが、日本仏教の思想にどのような欠陥があったのか、詳しい説明書きの看板を設置して「昔の日本人はこういうものを宗教であると誤解していました、人々の神への信仰を壊さぬために全てを明らかにいたします」と付け加え、仏教に従事していた者の中で希望するものが居れば観光客用のパフォーマーとして再雇用して時に粛々と時には仰々しく演じてもらい、観光ガイドが語るように「実は紀元前に終焉していたものを現代でも立派な宗教であると誤解させるために、あんな作り事やこんな作り事をしていたのですよ」と事実を思う存分明らかにしてもらうことで観光客のよい思い出になると考えます。そうすれば、倫理的な悪影響を与えない建造物として歴史に残るのではありませんか。(偽りの)宗教に無責任に手を合わせ続ければ、学問にまで悪影響を及ぼします。
「絶対的な市場の空気」
「空気を読む」という日本語の真意は、「メンバーが同じ沈黙的アイデンティティを共有するグループ」の様なより明瞭なフレーズを用いないことにより、それがアンチノミーである事実を指摘されずに(儒教、道教、仏教、神道を信じていませんと言えない)グループへの更なる拘束が容易になり、もし仮にそのメンバーをグループから切り捨てる事態になっても「あのメンバーとは(その場の空気しか)共有していなかった」という暗示をかけ易いが故の冷酷な不親切と計算高い媚売りです。